階段を四十段ほど下り、左に折れて、雑草の多い茂る裏庭をすり抜け、小さなため池を作っている窪地を越え、留学生がたむろする自転車置き場の喧騒をかわし、開いたままの門扉を通り、煙草に火を点け、通りに出る。吸い終わると、とある学習塾の前に立っている。
「彼」は、寄せては返す風雨の波状攻撃を耐え忍び、しかし、寄る年波には勝てず、ぼろぼろと茶色のタイルを剥落させ、真皮の灰色を曝している。「彼」の背後には、小中一貫教育で鳴る名門学校法人の瀟洒な建造物が高く聳え、「彼」のくたびれた佇まいと鮮明なコントラストを成している。高さと強さを兼ね備えた背景の中にレイアウトすると、「彼」は腰を曲げた老人のようであり、つい杖を貸したい老婆心が頭をもたげる。
しかし、苦楽を共にしてきた彼の同胞たちを視野に収めると、憐憫の情は羞恥に手を引かれ腹の底へ落ちていく。軒を連ねるクリーニング店や煙草屋、化粧品店は、黒く汚れた肌としみまみれの顔を堂々とこちらに向けている。エステや整形、ボトックス注射には目もくれず、ただ一途に年輪を重ねてきた。斑に汚れた肌に、晴れ間が差す。立ち並ぶ顔を一条の光がさっと走り抜ける。彼らの厚化粧が光沢を帯びる。何も恥ずかしいことはない。ばつの悪い思いがする。
「彼」の老いが恥辱や憐憫の情を呼ぶようなものではないことは、「彼」のもとへ日参する中高生たちの姿が物語っている。傘を畳み、空を仰ぐ中高生たちは、「彼」に伝統や実績を見ている。学習塾のような実績がものをいう商いは、ノーメイクで腰を曲げたまま、戦果をありのままさらすのが「売り」となるのだろう。
だが、本当に「彼」がありのまますべてを曝け出しているというのであれば、あれはどう解釈すればいいのだろう。
多くの学習塾がそうであるように、「彼」もまた親心を焚きつける合格校と合格者数を明示した看板をぶら下げている。看板に偽りあり、と後ろ指を指したいわけではない。むしろ、偽りがないほうが問題だ。
というのも、「彼」がぶら下げている看板は、平成十六年度の実績を示したものだからだ。このすすけた看板があけすけに語る四年の時差に、思わずアテネと北京との間に広がる茫洋たる大海と起伏に富んだ大地のパノラマを幻視してしまう。
パンダが転がり、マグロが跳ね、象が水浴びに戯れ、ラクダが闊歩する。偏西風がチョモランマにぶつかり、零れ落ちた氷塊がガンジスを下ってインド洋に出帆し、アラブで石油を積んで、ギリシャの太陽を浴びる。
如才なさや軽佻浮薄とは無縁の「彼」の誠実な態度は、野口みずきの栄華と落日すら、走馬灯のように脳裏を過ぎらせる。それはおそらく「彼」の陰画でもある。四年の月日は残酷だ。
「彼」の金看板は空白の四年を痛切に悔いているに違いない。無念。
裸一貫、死に化粧に身を包む。
雨がまた強くなってきた。
傘を忘れた女子生徒が、意を決して外に駆け出す。
たぎる妄想を雨が冷ましていく。

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